授業のスタイルについての11回目です。

(10)生徒が見えること、情報を得る力

ある研究授業を見たときのことです。
生徒のしつけが良く、授業開始の号令でしっかり立ち、声を出します。
静かに出席が取られ、先生は黒板にその時間に学ぶ内容のタイトルを書きます。
生徒全員が、しっかり前を見て、それをノートに写します。
生徒は、意欲が高そうに見えました。

でも、そう見えたのはそこまででした。
授業に入ったとたんに、何かが変わりました。
私語が始まったわけではなく、授業と別のことをやりだすわけではないのですが、
生徒に考えてはいないことが見えたのです。

最初に見た積極的な態度は、学ぼうとする意欲ではありませんでした。
それを見ていなかったことに気づきました。
そのような「見せかけの積極さ」を、「意欲」と勘違いしていたのです。

それは、考えずにノートを取ったり、作業的な学習内容のときに起こります。

それ以降、生徒の態度を見るときに、何を見ているのかを、もっと考えるようになりました。

■マージョリー・バーストーが教えた教師として生徒を見ること

わたしたちは教師として、生徒の何を見ているのでしょう。

BodyChanceのアレクサンダーの学び方は、マージョリー・バーストー(マージ)から来ています。
マージの教師養成は、伝統的なアレクサンダーのそれとは大きく違っていました。

マージ派の先生たちにとっては、教えているときの自分のユース(使い方)が何よりも大切です。
それは生徒に話しながらも、自分が抱く考えに気づき、自分の身体情報を受け取り続け、
生徒の状態も毎瞬毎瞬に観察できるようにするユースです。

先生として教えながら、いろいろな情報にオープンでいる力です。
そのときに生徒に見ているものは、「何でも」とか「全て」ということになります。
わたしたちは何かに焦点をあて過ぎると、意識が狭くなり、身体を固めてしまうからです。

「全て」を観察しながら、そこに何が見えるかは経験と訓練です。
人と同じものを見ていながら、違うことを観察できるようになる必要があるからです。

もちろん、特定の情報が見ることができる訓練(アレクサンダーでは、頭と脊椎がどうなっているかを見ることができること)
も重要です。
書道の専門家は、字を見たときに、普通の人よりも多くの情報を得るでしょうし、
それは舞台や、音楽、スポーツ、どんな世界でも同じでしょう。

そのような個々の観察の力と同じく、「全て」の情報を受け取り続けるという態度も訓練できるのです。
(「全て」は不可能なので、「できるだけ多く」と言い換えた方が良いかもしれませんね。)

生徒から「できるだけ多くの情報」を観察できる訓練は、先生にとって役に立ちます。

■学校の先生にとっての観察する力

教員になりたての頃、生徒をしっかりと見ることができませんでした。

わたしは、授業準備の中で持った考えや、本で学んだ教育理念のようなものを、
一生懸命に、生徒に投影していたのだと思います。

わたしが生徒に対して「怖れ」を持っていたからだとも思います。
人をうまくリードすることに、自信を持っていませんでした。

もちろん、誰も経験することですが、教える経験を積むうちに、少しずつ生徒の様子が見えてきます。
余裕がでて、いろいろな教育手法を、うまく選択できるようになります。

それはあったのですが、「生徒を観察する力」はアレクサンダー教師の訓練を受けることで劇的に向上しました。

学校の先生たちは、直接的にこの力を学ぶことができますが、BodyChanceの教師養成コースでは、
第二段階でそれがでてきます。
手短かに紹介しましょう。

■教師養成コースの第二段階での観察の訓練

BodyChanceの教師養成コースでは、最短で2年間の第一段階を終わり第二段階になると、
教える練習も始めます。
先生の前で、他の生徒に教えるのですが、やっていることが明確でなくなったり、
「心配」や「不安」が起きたりして、身体の自由さがなくなると、
すぐに先生に止められてしまいます。

これは、自分と生徒を観察することと密接に関係します。
迷ったり、「頑張ってやろうとする自分」がでてくると、観察がストップするからです。

わたしは、第二段階を終えるまでに1年かかりました。
しかも、第二段階を終えても、「それがどんなものか、ようやく分かりだした」というくらいです。

知識でしたら短期間に得ることができるでしょうが、長年使わなかったセンサーを機能させることは、
当然時間がかかります。
この訓練は、やるだけの価値がありました。
これによって、学校で教えることが本当に楽になったからです。

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