授業のスタイルについての9回目です。

(9)知る、理解するという「入力」だけでなく、「出力」をさせる

学習が新しいことを学び、理解するだけだとすると、苦しいものになります。
学ぶという入力とともに、何かの出力が必要です。

学校の先生にとっては教えることが出力なので、わたしは多くを学びました。
先生になるまで知らなかったCOBOL(+JCL)、C言語、アセンブラ、Visual Basicなど
プログラミング言語に加えて、電子回路、ネットワーク、データベースなどを学び、
電気工事士の資格をも取りました。
それらは、何度か教えていくうちにわたしの中で、定着していきました。

「学びたかったら、教えれば良い」というのは本当だと思います。

学校全体の成績処理のシステムや、入試関連の処理プログラムを作ることも、わたしにとっての良い出力でした。

出力をしなかったために、学んだことが消えたことも、多く体験しています。
工業の教員だったので、多くの技術講習会に行きました。
学校に導入されたマシニングセンターという工作機械のメーカーの講習会に2泊3日で行きましたし、
DSP(デジタルシグナルプロセッシング)の講習会に自費で行ったりもしました。
でも、せっかく理解しても、その後使わなかったものは消えてしまいます。

■英語についての体験

それは、英語を学ぶことでも感じました。

高専という英語学習には恵まれない環境でしたが、受験勉強を4年間行ったため、英語は好きになっていました。
(田舎学生で予備校もなかったため、当時の大学受験ラジオ講座には、とてもお世話になりました。)
さらに新設大学の3年生に編入後、英語のサークルを作って活動したので、4年のときに英検1級は取得しました。
でも英語の本を楽に読むことはできませんし、ましてや英会話などは程遠い状態です。
修士課程での研究テーマだった粘弾性流体の英語文献を読むのが精いっぱいでした。
読めもしないのに、TIMEを持ち歩いていたことを思いだします。

でも、社会人になってからはやめにしました。
ときどきの勉強の勉強では、少しも力が上がる気がしなかったからです。
学習という「入力」だけでは役に立たない、と実感していました。

その後15年ほど、英語に触れずにいたのですが、状況が変わりました。
突然、トルコ共和国への途上国援助に参加するように、という指示が文科省から来たのです。
トルコの工業高校用に「自動制御とネットワークを学ぶカリキュラム」を作成した後に、
2000年9月には、トルコの首都アンカラの教育省に行き、ミーティングに参加しました。
自分に発言を求められたときは、しどろもどろでしたが、これが英語の学びの再スタートでした。

その後のトルコ滞在の3年間で、英語で話す機会が増え、4冊の教科書を英語で書いたので、
英語脳に少しはなったようです、

そして、帰国後の2005年から、アレクサンダー・テクニークを学び始めました。
当時のBodyChacneの教師はジェレミー・チャンス、もしくは海外教師だけだったので、
ネイティブの英語に触れる時間が圧倒的に増えました。

また、自分の興味から多くの英語の著書を読み、翻訳を行い、ときどき通訳も行うという状況が生まれました。
さらに2013年からの3年間はBodyChacneのフルタイムスタッフとなり、ジェレミーとミーティングを行い
頻繁にメールをやりとりするという、厳しい状況になりました。

「学習」と、「興味と仕事」で使うことの質の違いはとても大きいものです。
その差をまざまざと感じました。
(続く)

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