アレクサンダーの姪でアレクサンダー教師となり、ウィルフレッド・バーロー医師(「アレクサンダー原則」の著者)の妻となったマージョリーを取り上げます。
アレクサンダー(FM)の第1期の教師養成コースには、2人のマージョリーがいました(もう一人はマージョリー・バーストー。マージョリーのスペルは、Marjory(Barlow)とMarjorie(Barstow)で異なります)。
アレクサンダーの姪のマージョリーは、コース開始から2年遅れて加わります。
マージョリー・バーローは、アレクサンダー以外で初めて教師養成を行いました。
規模は小さいですが、バーロー派は、キャリントン派、マクドナルド派とともに、アレクサンダー教師の1つの潮流になっています。
マージョリー・バーローの特徴は、アレクサンダーの教え方に最も忠実なことでした。
(1)マージョリー・バーロー(1915-2006)の生涯
アレクサンダーと仲の良かった妹アミーは、オーストラリアを出てロンドのFMに加わり、しばらく後にジョージ・メチンと結婚し、2人の娘を持ちました。
長女のマージョリーは、体育はできないほど身体が弱くて、ひどい偏頭痛もありました。
アレクサンダーの姪でしたが、小さい頃を除いては会ったことがなく、FMの本のCCCを読んで興味を持ち、17歳で始めて本格的にレッスン(1932年5月のこと)を受けます。
彼女の身体状態に驚いたFMは、すぐに学校をやめさせ、毎日レッスンを受けさせました。
その後彼女は健康を回復し、リトル・スクールを手伝い、買い物をしたり昼食を作ったりするようになります。
この間に、リトル・スクールを教えていたアイリーン・タスカーが、マージョリーにライング・ダウンワークを行い、仕事の中でどのようにテクニークを使うかを教えました。
マージョリーの父ジョージは、1929年の世界大恐慌の後に象牙商の仕事がうまく行かなくなり、その上に癌で闘病し1933年に亡くなります。
一家は生活に困窮しますが、FMがその面倒を見て、マージョリーは18歳の誕生日(5月9日)に、アレクサンダーから教師養成コースで学ぶようにと言われます。
トレーニングを行いながら、FMのために、競馬の賭けを行なったり、午前のココアや紅茶、昼食を作るなど小間使いをします。
1936年にトレーニングを終え、その後はFMのもと、アシュリー・プレイスで教えました。
この間、パトリック・マクドナルドと一時婚約しますが、結婚にまでは至りませんでした。
第二次世界大戦(1939年9月~)が始まって約1年後の1940年7月には、教師養成コースで学び始めていた医学生のウィルフレッド(ビル)・バーロー(医師免許を取得したのは1941年)と結婚します。
二人は同い年で25歳でした。
結婚の頃に、アレクサンダーはアメリカに行き、アシュリー・プレイスをマージョリーとキャリントンに任せます。
しかし、アシュリープレイスは、すぐ後の9月に爆撃を受けてしまい、彼女はその後ロンドンを離れました。
それから2人の子供を設け、1945年に戦争が終わった後、子供を預けながら6ヵ月ほどFMを助けて教えましたが、小さい子供を抱えながらは大変だったので、家で個人レッスンだけを行うようにしました。
夫のウィルフッド・バーローは、FMの名誉棄損裁判では、前年に脳卒中で倒れたアレクサンダーの代わりに、南アフリカで出廷(1948年)するなど、大きな役割を果たします。
1949年末にマージョリーとウィルフレッド・バーローは、STATの設立を巡ってアレクサンダーと決別し、アレクサンダーが亡くなるまで(1955年)、二度と会うことはありませんでした。
彼女はFMに、「わたしたちの結婚を壊そうと言うのですか。テクニークの将来については何も考えないのですか。従わない人たちを排除するのですか。」と手紙を書きました。
その翌年の1950年、2人はアレクサンダー自身以外で初めて、教師養成を始めます。 ビル・バーローは医師で忙しかったため、トレーニングの中心はマージョリーでした。
1979年には教師養成コースから引退しますが、マージョリーは、その後も個人レッスンや、マスタークラスで教えます。
夫のウィルフレッド・バーローは76歳(1991年没)で、やや早期に亡くなっていますが、マージョリーは、91歳(2006年没)まで長生きしました。
小さい頃に病弱だったマージョリーが、晩年まで活動できた(1999年の83歳のビデオでも、とても元気に見えます)のは、まさにアレクサンダー・テクニークの恩恵だと言えます。
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