今回はアレクサンダーの父親について書いてみます。
アレクサンダーは第一子だったため、幼いころの父親の影響は強かったと思われますが、後にほとんど絶縁状態になります。

父親ジョンの影響、アレクサンダー一家の危機

アレクサンダー(FM)の父親のジョン(1843-1936)は、鍛冶屋で腕の良い蹄鉄職人でした。
22歳で4歳下のベッツィー(1847-1923)と結婚し、2年ほど後にアレクサンダー(FM)が生まれます。

タスマニア島の田舎にあるジョンの家には、ウィルソン医師(生まれたばかりのFMの健康が優れないため、良く訪れていました)とオカラガン神父が何度も夕食を食べに来ていました。
後に、FMの学校の先生ロバートソンがそれに加わります。
ハムを切る繊細な作業は、ジョンの仕事でした。

父親のジョンは「われわれは、自分の足元にあるものを、めったにしっかり見ていない。」とよく言っていたそうです。
学校に行くことを免除されたFMは、この言葉により、昼の時間を動物の行動の観察などに費やすことになりました。
後にFMは、「人は、明らかなことを分かろうとしない。それが、眼を使って観察するものでも、考えや論理的なプロセスを使って理解できることでも。」と言っているのは、その影響でしょう。

また、ジョンは親元を離れる子供たちに「質の良い食料だけを買いなさい。たとえほんの少ししか買えなくても。」と言ったそうです。
タスマニア島の良質の野菜と家畜の食生活は、アレクサンダーの食べ物の質についての嗜好を高めました。
彼は、舌が確かなら、アメリカで売っている肉やベーコンを食べれば、豚の餌が悪いことが分かる、と言っていました。

FMがメルボルンで喉の障害と取り組んでいた最中の1893年3月、ジョンとベッツィー夫妻の末っ子、10番目のスタンリーが、六ヶ月の間、髄膜炎で泣き叫び続けた後に亡くなり、一家は悲しみに包まれました。

FMはこの頃、一緒に住んでいなかったはずですが、祈りも効果がなかったことから、この出来事は、彼に外にいる神への信仰を捨てさせました。
さらに追い打ちをかけるように、不況のため父親のジョンは最も良い2頭の馬を売らなくてはならず、彼はそれまで止めていた酒に溺れることになります。

父親との決裂と金銭援助

25歳のアレクサンダーは喉の障害を克服した後で、朗誦家になろうとそのような状態のワインヤードのジョンの所に戻ってきたわけです。
「旅役者になるなんて」と反対する父親とFMは衝突しました。
後にFMよる金銭援助はありましたが、これ以降2人が再び合うことがあったかどうかは定かでないそうです。
(FMの著書「自分の使い方」の第一章「テクニークの進化」にある父親との会話はこの頃のはずですが、美化して書いてあるだけのような感じがします。)

1897年2月に、ワインヤードのジョンの家は火事に遭い全焼します。
ジョンは、そのため多くの負債を抱えることになりますが、FMが債務を保証することで、ジョンと二男のアーサーは、鍛冶屋を続けることができました。
火事が起きたときにメルボルンのFMの元に遊びに来ていた母のベッツイー、妹のアグネスとメイ、弟のボーモントは、帰る家がなくなりメルボルンにとどまります。
(火事の前から、大酒飲みで陰気になったジョンとは別れて暮らすことにしていた、とも言われています) そして、この後も彼女らはジョンの元に戻ることはありませんでした。

1894年にシドニーでの競馬で大穴を当てたアレクサンダーは、この父親の負債を払いロンドンに向かうことができました。
アレクサンダーは母親と兄弟姉妹だけでなく父親も支え続けたわけです。

ジョンは、1936年に93歳で亡くなるまで、馬の蹄鉄を作り続けました。